■そば切り発祥の地は?
ソバの栽培は、奈良時代飢饉対策として栽培が奨励されたことが「続日本記」にみられるのが初見であるが、そばは最初そばがき・そば焼もちなどにして食べられていた。われわれが現在慣れ親しんでいる、そばは当初「そば切り」といわれ、生まれたのはどうも江戸時代あたりのことらしい。ではこの「そば切り」いったいどこでどのようにして生まれたのであろうか。
一番よく知られているのは、宝永3年(1706)に刊行された「風俗文選」に紹介された塩尻本山説である。「蕎麦切といっぱ、もと信濃国本山宿より出てあまねく国々にもてはやされける。・・・」とあることから本山宿がそば切り発祥の地とされてきた。現在も塩尻市本山には「そば切り発祥の里」がある。
さて関保男氏の「信州そば史雑考」では「そば切り」の語の初見は天正2年(1574)の木曽・定勝寺文書だとしている。定勝寺の仏殿修理の竣工祝に「振舞ソハキリ」があったと「番匠作事日記」という文書に記されているのである。この記録はそれまでの「そば切り」の初見であると定説になっていた、『慈性日記』(1614)(慈性は近江多賀神社の社僧)より40年も前のことである。しかも、それが木曽谷でのこととなると信州人にはなおさら興味深い話である。
天正年間といえば、戦国時代のまっさかり。寺院ではそんな世の混乱のなかでひそかにそば切りを味わっていたということか。関氏によると、当時麺打ちの技術は寺院の間で広まりをみせていて、定勝寺でも古くから小麦による麺作りの技法が伝わっていたようだ。つまりそばを打てる、道具も技術も備わっていたと十分に考えられる。
しかし、本山説にしても木曽谷説にしても、今のところ決定的な確証はえられていないのが本当のところらしい。全国にはここ信州のほかにもそば発祥の地を何らかの文献に基づいて謳う土地もある。いまもさることながら、江戸時代そば切りのもてはやされ方は、一時禁止令がでるほど熱いものであったというから、うなずけることかもしれない。ただ、信州の木曽や塩尻周辺は現在も有数のそば処であり、この地域も含め信州が古くからそばの名所であったことは確かである。
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